
名所図会とは?
名所図絵は江戸時代に流行した地誌で、その中で播州名所巡覧図絵は、江戸時代の播磨地域の文化や歴史を知る上で、重要な資料とされています。
播州名所巡覧図絵は、大阪から赤穂に至る山陽道を中心に、播磨国(現在の兵庫県南西部)の名所や旧跡を詳述しています。各地の地名や由来、伝承、古歌などが紹介されており、当時の旅行案内としての役割を果たしていました。
このページは、播州名所巡覧図絵に紹介された、高御位山と石宝殿の紹介です。
高御位山
播州名所巡覧図絵原文
志方、福井の二郷に跨る山上に神祠有。是、石宝殿に祭る所の、一座、高座明神の坐山也。例祭、九月十九日。神與一基、山上より守り奉れば、同じく生石子より是を麓に迎え、高座山と宝殿との間、神幸の舘舎に生石子の神與と共に並べ、鎮め奉る事、一夜也。
さて山を高御座と號るは、神座の儀也。里俗の傳に、山上に石屑多きは、宝殿制作の時、ここに送り来りしもの也とはいへども、石屑、いかなる重宝にか有らん。今は捨所さへまどひぬ。其上、昔は生石子の山下、波涛の渚也しものを、誠に神慮はかるべからず。
この文章の現代語訳
志方(しかた)と福井(ふくい)の二つの村にまたがる山の上に、神社がある。この神社は「石宝殿(いしのほうでん)」を祀る神社であり、そこに鎮座するのが「高座明神(たかくらみょうじん)」である。この神社の例祭は、9月19日に行われる。
祭りでは、神輿(みこし)が一基、山の上から運び下ろされる。そして、同じく生石子(おうしこ)の神輿とともに、山のふもとにある御旅所(神様が一時的にとどまる場所)へ迎え入れられる。高座山(たかくらやま)と宝殿(ほうでん)の間に設けられた御旅所で、一夜の間、二つの神輿を並べて安置し、神を鎮めるのである。
さて、この山が「高御座(たかみくら)」と呼ばれるのは、そこが神が座す場所であるためである。村の言い伝えでは、山の上にたくさんの石くずがあるのは、かつて石宝殿を造る際に、ここへ石材を運んできたからだと言われている。しかし、それらの石くずがどれほどの価値のあるものだったのかは分からない。今では、それらをどこに捨てたらよいのかさえ分からなくなっている。
さらに、昔は生石子の山のふもとが、波が打ち寄せる海岸であったという。しかし、神の思し召しは人の知るところではない。
文章の要点としては、兵庫県高砂市にある 生石神社(おうしこじんじゃ) に関する祭礼の説明と、神社のある山(高座山)の由来について記しているものです。石宝殿は日本三奇の一つに数えられる巨大な石の建造物であり、古くから信仰を集めていました。
高御位神宮 御由緒
石宝殿の真北にあたる高御位山には、高位明神が祭られる高位神社があります。高御位神宮の由来によると、人類が地球に誕生したとされる今からおおよそ650万年前、金星から飛来した隕石が空中で3つに分かれ 紀州の熊野、京都の鞍馬、そして播州の高御位に落ちたといわれており、その隕石が金星から飛来したので金神として祀ったといわれています。
「石宝殿」

播州名所巡覧図絵原文
静巌室と稱(称)す。生石子村、中山腰にあり。石殿を以って神體(神体)とす。大さ二丈三尺四方、高さ二丈六尺、すべて社檀の形に作りたるを、横に倒したる也。故に、屋根は土台とも横に見へて、拜する人は宝殿の底に面す。
一石を以て作りなしたるは、元より此地は近國の名物、龍山石を産ずる山にして、宝殿も一個五十余丈の石山の中を切り抜き、即ち、切り抜きたる所にて造り、其所に倒し捨たるさま也。土台と屋根との間は四方ともに切りかけて狭く、上に成りたる所には、自ら土留りて松を生ず。四周に水の溜まりたるは、是、掘て窪ければなり。
孝徳天皇白雉年中、千石千貫の社領を賜り、摂社、末社をも厳重たりしに、赤松別所等が動乱に頽廃(頽廃)して、今は生石明神、高位明神、二神を幣殿に鎮座するのみなり。神徳井に記原不思議、神人の縁起といへるものにゆづりて、爰(こゝ)に略す。
この文章の現代語訳
静巌室(せいがんしつ)」と称される場所がある。これは、生石子村(おうしこむら)の中山のふもとにあり、石の殿を神体として祀っている。
この石殿は、大きさが二丈三尺四方(約7メートル四方)、高さが二丈六尺(約8メートル)あり、全体として神社の社殿の形をしているが、それが横倒しになっている。そのため、屋根は土台のように横向きになり、参拝する人は宝殿の底の部分を正面にして拝むことになる。
この石殿が一枚岩から造られているのは、この地が古くから「龍山石(りゅうざんせき)」を産することで有名な山だからである。宝殿も、もともとは長さ五十余丈(約150メートル)の巨大な石山の中から切り出され、そこで造られたものである。そして、造られたままの状態で、その場に横倒しにされたのである。
土台と屋根の間は四方ともに削り取られて狭くなっており、上部には自然に土がたまり、松の木が生えている。また、周囲に水が溜まっているのは、地面を掘り下げたためにくぼみができたからである。
孝徳天皇の白雉(はくち)年間(650年代)には、この神社に千石千貫(多くの収入に相当する)の社領が与えられ、摂社や末社も厳重に整備されていた。しかし、赤松氏や別所氏による戦乱のために荒廃してしまい、現在では生石明神(おうしこみょうじん)と高位明神(たかくらみょうじん)の二柱の神だけが幣殿(へいでん)に鎮座している。
神徳や神々の由来については、古い記録に詳しく述べられているため、ここでは省略する。
この文章は、兵庫県高砂市の生石神社(おうしこじんじゃ)と、そこにある石の宝殿について記したものです。石の宝殿は、日本三奇の一つに数えられる巨大な石造物で、横倒しになっていることが特徴です。この文章から、もともと社殿の形に加工されたものの、建設途中で放置された可能性があることがわかります。
竜山石
巨石の御神体として有名な石宝殿、この辺り一帯は竜山石(宝殿石)の産地としても知られており、古代より現在まで1700年もの間採石され続けている石材は、国内でも竜山石だけだそうです。
竜山石の特徴と種類
竜山石は、その色調により「青竜石」「黄竜石」「赤竜石」の3種類に分類されます。見た目は栃木県の大谷石に似ていますが、より硬質で耐火性や耐久性に優れています。また、柔らかく加工しやすい性質も持ち合わせています。
竜山石の歴史的利用
約1700年にわたり採石されてきた竜山石は、古墳時代には石棺の材料として使用され、姫路城や明石城の石垣にも用いられました。近代では、国会議事堂や帝国ホテルなどの建築物にも採用されています。
生石神社と石の宝殿
竜山石の産地である高砂市には、生石神社があり、その境内には「石の宝殿」と呼ばれる巨大な石造物が鎮座しています。この石造物は、竜山石で作られた一枚岩の建造物で、日本三奇の一つとして知られています。
日本三奇石乃宝殿 鎮の石室(いわや)とは
生石神社略記
神代の昔、大穴牟遅命(おおあなむち)と少毘古那命(すくなひこな)の二神が天津神の命を受け、国土経営のため出雲の国より此の地に座し給ひし時、二神相謀り国土を鎮めるに相応しい石の宝殿を造営せんとして一夜のうちに工事を進めらるるも、工事半ばなる時、阿賀の神一行の反乱を受け、そのため二神は山を下り神々を集め、(当時の神詰現在の高砂市神爪)
この賊神を鎮圧して平常に還ったのであるが、夜明けとなり此の宮殿を正面に起こす事ができなかったのである。
時に二神宣はく、たとえ此の社が未完成なりとも二神の霊はこの石に籠もり永劫に国土を鎮めんと言明せられたのである。
以来此の宮殿を石乃宝殿、鎮の石室と称して居る所以である。
この文章の現代語訳
神代の昔、大穴牟遅命(おおあなむちのみこと)と少毘古那命(すくなひこなのみこと)の二柱の神が、天津神(あまつかみ)からの命を受け、国土を整えるために出雲の国からこの地に降り立った。
二柱の神は相談し、国を鎮めるのにふさわしい「石の宮殿(宝殿)」を建てようと決め、一夜のうちに工事を進めた。しかし、工事が半ばまで進んだとき、「阿賀の神(あがのかみ)」の一団が反乱を起こした。そこで二柱の神は一旦山を下り、神々を集め(この神々が集まった場所が、現在の兵庫県高砂市の「神爪(かみづめ)」である)、賊神である阿賀の神を討伐し、国の秩序を取り戻した。
しかし、その戦いの間に夜が明けてしまい、工事途中の石の宮殿を正しい位置に起こすことができなくなってしまった。
そのとき、二柱の神はこう宣言した。
「たとえこの宮殿が未完成であっても、我々二神の霊はこの石に宿り、永遠にこの国を鎮め守るであろう」
このことから、この宮殿を「石乃宝殿(いしのほうでん)」または「鎮の石室(しずめのいしむろ)」と呼ぶようになったのである。
この文章は、兵庫県高砂市の**生石神社(おうしこじんじゃ)**に伝わる「石の宝殿」に関する神話です。石の宝殿は、日本三奇の一つとされる巨大な石造物であり、横倒しになったままの状態で残されています。この伝承では、大国主命(大穴牟遅命)と少名彦命が建設しようとしたものの、戦乱のために未完成のままとなったと語られています。
また、高御位神宮は熊野修験道本庁と密接な関係があり、神仏習合の祭事を執り行っています。
歴史的背景
高御位神宮の起源は、約650万年前に金星から飛来した隕石が現在の高御位山頂に落下したという伝承に遡ります。約2500年前、第5代孝昭天皇の勅命により、この地に「鬼門八神」が祀られ、「高御位山」と名付けられました。以来、九鬼家によって代々祀られ、現在の高御位神宮に至っています。
神仏習合の実践
高御位神宮では、鬼門八神や鬼門大金神などの神々に加え、熊野大権現たる十二菩薩も奉斎しています。これにより、神仏習合の伝統を守り続けています。
熊野信仰との関係
大国主命(大穴牟遅命)の伝承や、熊野本宮大社の神官を代々務めてきた九鬼家との関係、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)を中心とした熊野修験道との関係など、高御位神宮は熊野信仰との深いつながりを感じる神社です。